Saturday, October 30, 2010

What is Life? 種とは何か再び(What is species? again)

皆様、お早うございます。台風が今頃来るなど、おかしいですね。さて、今日は種とは何かについて改めて講義します。

Good morning everyone. The typhoon 14th has come, but it si too late in Japan. It is strange. How do you think about it? Anyway, today's theme is Species.

皆様は「種」とは何かご存知でしょうか?「種」とは繰り返し子孫を残すことの出来る集団のことを指します。以前も種とは何かについて講義しましたが、覚えていらっしゃいますか?

Do you know what species is? The species means that the group, which can generate next generation (descendant) eternity. I had explained about it before. Do you remember it?

本日は、もう少し具体例を挙げて説明します。皆様がお茶を召し上がる際に、緑茶、紅茶、ウーロン茶など、あると思いますが、その原材料となる茶ノ木は同じ「種」(Camellia sinensis)であることをご存知ですか?

Today I explained about species by using some cases. Did you drink tea on yesterday? Green tea? Black tea? or Oolong tea? Do you know the leaves of those teas are originated from same species (Camellia sinensis)?

製造工程が異なっていて、緑茶は発酵させずに作るのに対して、紅茶は完全発酵、ウーロン茶はその中間なのです。

The precess is so different in those three teas. The green tea is made with no fermentation, the black tea is made with complete fermentation, the oolong tea is the middle.

しかし、人はどうでしょうか?肌の色が黒い人も、白い人も、黄色い人もいますが、同じ種です。チンパンジーといつ別の種になったのでしょうか?謎はまだ明らかにされていません。

By the way, please think about us. There are many progenies whose color of skin are not same, for example brown, yellow, and white. They are same species, because we can make descendant by love. When did we and chimpanzee divided as other species? The mystery has not been dissolved even now.

本日の講義は以上です。最後に、出欠をとります。以下のバナーをクリックしたことで「出席」と認めます。(内山さん、見てますか?)

Today's class is over. Have a nice day. Click the button at the bottom of this What is Life?, if you are a student of this class. 



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Thursday, October 28, 2010

What is Life? ゾウリムシの感情再び(Passion in paramecium again)

お早うございます。国への申請作業も終え、一段落です。本日は感覚で世界を捉える:虫は痛みを感じているのか?こちらで議論している内容のご紹介です。今回は英訳は御勘弁下さいm(._.)m。(改行は必要があれば、こちらで処理させていただきますが、テキストは変更しません。)

Good morning everyone. Could you take enough time of sleep last night? I had already finished the submission to obtain national budget for our company. Anyway, today's class may be too tough and very interesting for you. I and Mr. Tajima are discussing about the existence of passion in paramecium or microorganism. He is a specialist and has his higher world. Because I respect him, I show you the discussion today. And also I am sorry, I don't have enough technique for translation from Japanese to English. Today's class is only Japanese. I am sorry again. If you want to know about it in detail, I can explain against your question. Now it starts. See in below.
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 20101010日日曜日

例えばゴキブリに殺虫剤を吹き付けると
いかにも苦しそうにバタバタしている。
しかし、本当に「苦しんでいる」のだろうか?
苦しみを感じているのだろうか?

例えば雨上がりのアスファルトに、ミミズが這い出てきて
途中で乾いてしまい、のた打ち回っているのを
目撃することがあるが、
彼らは「苦しい」のだろうか?

彼らには痛覚を司る器官はないし、神経回路は単純で
「意識」があるようにも思えない。

脳を切り落としたカエル(脊髄カエルという)の背中を
硬いピンセットで刺激すると痛そうに後ろ足で払いのけようとする。
これは脊髄反射の典型的な実験として広く知られている。
脊髄カエルが激しく反応するのは単なる反射であって、
脳がないのでいわゆる「痛み」を感じているのではない筈だ。

科学的な解釈によれば、殺虫剤をかけたゴキブリも、乾きにのたうつミミズも、
激しく動くのは「反射」の類であって、「痛み」や「苦しみ」とは関係ない。
ただ、私たちが「痛そうだ」「苦しそうだ」と勝手に解釈しているにすぎない。

 ■ ■ ■

しかし、本当にそういえるのだろうか?
本当に、「痛み」や「苦しみ」はどこにも存在しないのか?

奇妙なことをいうようだが、かれらゴキブリやミミズが
痛みと苦しみを感じる能力がないだけなのであって、
痛みと苦しみそのものは現にそこにあるのではないだろうか?


人間が80の湯に手を入れると熱いのですぐ手を引っ込める。
しかしもし80の体温の生き物がいたら、兆度いいと感じるだろう。
100の体温の生き物がいたら、冷たいと感じるだろう。

共通するのは、温度という物理量の感覚であって、
相違があるのは快か不快かの解釈である。

薬剤の浸透によって神経が麻痺する感覚や
水分の不足による身体の機能不全の感覚は
生物機能の危機=「苦しみ」という全生物にとって共通のものである。

それをリアルな苦しみとして心の中で表現するかどうかは、
その生物の感覚の内的表現能力によるのである。


現象とともに感覚は普遍的にそこにあるのであって、それは意識の明瞭さには依存しない。
しかしそれをどう内的に表現するかは、体験者の能力による。

だから虫は全身で痛みを感じている、ともいえるし、何も感じていないとも言える。

投稿者 田島鉄也 時刻: 19:04 icon18_email.gif

16 コメント:
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Sammy さんのコメント...
ヒトが少しだけ高度な神経細胞の集合体である脳を持っているからといって、自分以外の動物に痛みが無いというのは明らかな間違いであり、侮辱しているとも考えられます。

では、なぜ、のたうち回っているのでしょうか。ではなぜ彼らは結婚相手や餌を探しているのでしょうか。それが例によって、「本能」だとでもいうのでしょうか。粘菌という極めて原始的な生き物も迷路を通り抜ける事ができる知性をもっているのです。

確かに、昆虫は痛みを感じないと習う事はあります。しかし、田島様ともあろうかたが、このようなことを書くとはおよそ信じられません。
それとも、単なる問題提起なのでしょうか。
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Sammy さんのコメント...
それと、先日、寿司屋でいけすからタイをすくって、それをまな板の上で暴れるのをおさえて、包丁で殺して料理にしているのを見ました。

半身となった鯛も暴れていました。痛みというか、それ以上の死を迎えていたのです。私はそれを食べました。

命を考える上で、そこに息子がいればよかったと、思いますが、こどもたちに一生会えないので、それもはかない夢のようです。

鯛は殺されるためにあのいけすにいたのでしょうか。皮肉を言っています。
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田島鉄也 さんのコメント...
「痛みの感覚」は普遍的なものですが、「痛みを痛みとして感じること(表象すること)」とは別のことだと思うのです。

痛みを痛がる、痛みを表象する、ということは、一つの内的表現であり、内的な世界解釈だと思います。ミミズがどのように痛がっているのか?ミミズをとりまく粘膜に、乾いた土や砂がこびりついたとき、ミミズ自身がどのように感じるのか?アイロンを押し付けられたようなのか?クリのイガを押し当てられたような感じか?

のたうち回っているので、強烈な、強度があると思います。しかしミミズがそれをどのように内的に具体化しているのか、私にはわかりません。

私が言いたいのは感覚の普遍性です。肉体があって、感覚器があって、痛いのではなく、痛みの感覚自体が先にあり、それを解釈し内的に表現するのは体験者である、ということです。
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Sammy さんのコメント...
なるほど、理解しましたが、それは患者さんの痛みを知る事ができない歯医者さんと似たようなことに感じます。

痛みがあるから暴れているのであり、同じ感覚ではないとしてもそれは苦痛によるもがき苦しんでいるに違い有りません。そこが仮に同じだとしても、あるいは違うとしても、命のある生き物としての尊厳はあると思っています。

相手がペットであろうと、食べ物の対象だとしても基本は同じ生き物だと思うのです。ですから私はWhat is Life?をやっていられるのです。
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田島鉄也 さんのコメント...
自分がミミズであると、深く想像してみましょう。私は土の中にいます。肺はなく、皮膚で呼吸します。息を吸ったり吐いたりするわけではありません。


上も下も右も左も全て湿った土に覆われています。頭の方にある土を口から取り込みます。体幹を貫く腸の中をゆっくりと土塊が通っていきます。視覚はありません。手も足もなく、体節を弛緩、収縮させて前進します。身体が大きくなると、体に変化が生じ、前と後に分裂します。私は2人になります。または別のミミズに接触すると、前後逆に交接し、精子を交換し、卵を体表に設けます。

「ミミズである」とは、どういうことなのでしょうか?

これら一連の生活は、快なのでしょうか、不快なのでしょうか?それともそのような言葉では言えないような類のことなのでしょうか?

言えそうなことは、土と一体であり、土そのもののような心境であるのではないか、ということです。自分の外側も内側も土と共にいて、土そのものではないか?

自然-身体-精神-社会をつなぐことを目指す私としては、一つの理想であるわけです。

水族館などでクラゲやイカが水中に漂っているのを見ると、彼らは人間には及びもつかない悟りきった境地にいるのかもしれないと、ふと思うことがあります。カントの哲学など足元に及ばないような状況なのかもしれないと・・・

現代にあっても禅寺では多くの禅僧が悟りを得ようと努力しています。しかし彼らミミズやクラゲは最初からそんなことをする必要はないのではないか?

知性というものは、実は最初から完成していて、生物種ごとにバリエーションがあるだけであって、人間などは無駄に複雑で未完成なのではないか?

「個」とか「我」とか「内と外」、「時間」というような、私たちが当たり前すぎて何の疑問も抱かないようなことでさえ、ミミズには通用しないのかもしれない。最初からそんな問題はないかもしれない。ミミズは、私たちが思ってもみないような、全く別のスケールを持っているのかもしれない。

ミミズにとって死はどのような意味があるのか?それは私の想像を絶しています。私は、ミミズがどのような心境にあるのか、決めることはできない。痛そうだ、苦しそうだと思っても、それは私がそう思うだけであって、彼らがどう感じているのか(「感じる」という言葉が当てはまるのか?)結局のところ、わかりません。彼らが身体を損傷され、何かの強度に身を晒すとしても、人間がいうような「痛い、苦しい」というものと、類似しているとは軽々しく言えません。

ミミズになることができればそれを経験できるかもしれませんが、人間の認識スケールを持った私がミミズの身体を持ってそれを理解できるのか、甚だ疑問です。

他の生物種の知性や文化(ここでいうのは身体機能や生態を含めた広い意味での知性や文化であり、痛みや快感というような強度体験も含んでいます)が、人間にとって必ずしも思慮の範囲にあるとは言いがたいのではないか?哺乳類くらい近ければ何となく分からなくもないですが、ミミズくらい離れると人間の認識範囲の外にあるかもしれません。

ちなみに私は路上に出て困っているミミズを拾って土に帰してやることを良くやります。彼らが苦しんでいるかどうかはわかりませんが、人間である私が(勝手に想像して)苦痛に感じるからです。
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Sammy さんのコメント...
ミミズが私たちと違う感覚器官や体構造を有している事、私たちも野生と一体である事、それは田島様の本も読みましたので理解しています。しかし、私が常日頃から主張している「私たちは特別ではない」という考えがございます。そして田島様の野生と一体であるという事、それも分かります。しかし、どうでしょうか。クラゲを見たときに、彼らが悟っていると感じるのは感傷的な気がいたします。なぜなら、彼らも生存競争にあり、単に生息域から捕まってきて、ヒトに飼育されているに過ぎないのです。

もちろん、自然界で生きるのと、水族館で生きるのはどちらが幸せなのか、それは彼らに聞いてい見るまで分かりませんし、ソロモンの指輪はないのですから、それは無理でしょう。

ヒトだけが不完全というあるいは未完成というお考えも、私たち自身を特別視している現れだと理解しています。私も苦しんでいるミミズを助けますし、その一方で、こどもたちにはそれを捉えてカメに食べさせる事もしています。

ちょっとぞっとすることもありますが、それは教育だと思います。

生きる事、真剣に生きる事が修行であり、お寺にこもる事が必須だとは思いません。ヒトは考えることが出来ます。そして礼節を重んじ、他を理解し、自らを変える事ができる生き物です。

否定する訳でもないですし、こうして私には思いもつかない観点でお考えをお示しなさっていることを大変尊敬致します。

私の主張の埼大のポイントは私たち自身が特別なものではなく、仮にそうだとすると、それは自己評価なのだということです。
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田島鉄也 さんのコメント...
「クラゲが悟っている」というのは、自分ながら奇妙な言い方だなと思いました。

私は物質や生命よりも前に感覚があったと考える、いわば「汎感覚論者」であり、最初に単一のエネルギー体に相当する感覚があって電磁波と物質に別れ、その後、分化に分化を繰り返して生物が誕生し、それぞれの生物種は、それぞれに適応する狭い領域の感覚的居場所を見つけ出すように進化したという仮説を考えています。

なぜ、そんなことを考えるかというと、科学と神話を統合させたいという狙いがあるからです。

神話は世界創世の謎を、独特の感覚的な言葉で綴っています。

長い時代、人間は神話を頼りに自然-身体-精神-社会を一本につなげてきたのですが、一方ここ百年で興隆してきた科学は、実験・実証が全てで、定量性を重んじ、感覚を排除してきました。

どうも、ここが問題の根本のようです。

科学、そしてそれが強力に後押しするところの資本主義社会は、自然と人間の祈りの関係を破壊し、即物的で無味乾燥な関係を作ってしまいました。

一度唯物主義に振れた軸を、感覚のほうに呼び戻さなければならないと思います。

もちろん、昔の神話を復活させるのではなく、科学が明らかにした豊富な事実をもとに感覚的に読み直すという方法を通じてやっていくしかないと思います。

ミミズの感じ方、アメーバの感じ方、バクテリアの感じ方、ウィルスの感じ方、赤血球の感じ方、生物のみならず、水蒸気の感じ方・・・奇妙な言い方になってきたので「水蒸気の感覚」と言い換えましょう。

枯葉が落ちる重力の感覚、砂粒がこすれて磨り減る感覚、大気の感覚・・・・などなど・・・宇宙に満ち溢れる感覚は、途方も無いわけです。

とにかく最初の「原感覚」ともいうべきものは、計り知れないほど物凄いものであって、ミミズには、先にある「計り知れなさ」につながる架け橋になっていて欲しいのです。

それぞれの生物種は狭い窓からそれぞれの感覚世界をみているわけでだから、私は人間とミミズは感じ方が違っていて欲しいのです。

(しかし、一つの感覚から分かれてきたのだから、その意味で「同じ」だとも言えるのですけどね。)

だから私の主張には、ミミズやクラゲの感じ方と人間の感じ方は違っている筈だ。いや違っていてほしい。違っていると思いたい・・・という背後的欲望が働いています。

ちなみに人間そのほかの動物は、「意識」に「感覚」を「表象」することができるようですがこれも進化の過程で獲得した生存戦略なんだろうと思います。つまり、一度痛い目にあったら、同じことをしないようにしようというような・・・
自我(自分であるという感覚)も、ずいぶん後のほうで作られた、付属物みたいなものだと思います。
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Sammy さんのコメント...
1、宗教と科学の根本は「真理の追究」(ヒトはどのようにして生まれたのかなど)だという考えは私もコンタクトという映画を見て知りました。

2、ヒトと同様に賢いチンパンジーあるいは犬でも良いですが、心を通わせられると思いませんか?ではどこまで下等動物までそれが可能でしょうか。脊椎動物まででしょうか。それも考えてみたいです。

3、科学の発達はそうした意味では自然を敵に回しているようです。しかし、その恩恵も一方ではあり、私もきちんと育ってきた事も恩恵なのです。

4、科学を悪と捉えるのでも良いのですが、少し私の方にも歩み寄っていただけませんでしょうか。自然と同体であることは、いつも肝に銘じております。それこそが魂の起源かも知れませんね。
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田島鉄也 さんのコメント...
科学が興隆することは大いに良いことだと思います。私は科学が好きですよ。
ただし科学のほうが圧倒的に興隆のスピードが速く、しかも科学と神話(感覚)をつなぐ概念がないので、科学のほうに大きく振れた現代文明をブランコのように感覚のほうに引き戻すことが必要だと思っています。
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さて、長い間議論してきましたが、私にはまだ謎があります。

話を元に戻すようで申し訳ないですが、ゾウリムシにも感情があるという貴方の主張について

1、貴方は本当にゾウリムシに感情があると確信しているのですか?
つまり、ゾウリムシに人間と共通する感情が表象されている(内部的に表現されている)という確かな根拠をご存知なのですか?

2、もしその根拠を明確に示すことができないとすれば、貴方は、「全ての生き物は同じである」という世界観によって、「ゾウリムシに感情があると思うべきだ」という倫理的欲望に基づいているのでしょうか?

正直いうとそういうのも在りだと思います。世界の見方というのは、自身の世界観に基づいています。例えば、私は私の世界観によって「ゾウリムシの感じ方は計り知れない」と考えたいわけですから。
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Sammy さんのコメント...
いえいえ、これは議論するべき大事なことです。

1、ゾウリムシに感情はあるかということですが、それが気持ちという私たちがもつものとは異なる感じ方の感情があると考えています。

遺伝子を引き継ぐことを目的とした全ての生物は性の有る無しに関わらず、電子のやり取りや、物質の移動、タンパク質の合成といった生理活動に支えられています。

つまりそこに何も感じる事の無い、いわゆるロボットあるいは、物質という捉えかたは困難な考え方だと思うのです。それが理解できない、あるいは想像できないのは、田島様がゾウリムシではないからです。

私は神様がどうしたとか言っている訳ではないのです。そうではなくて、仮にそれが動かない植物の種であったとしても、そこには新たな春を待つ仕組みが備わっていて、気持ちが存在するという尊厳をそこに与えてあげたいと考えるのです。擬人化ということともそれは異なります。

そうした考え方では、動き回る大腸菌などなおさらです。よく大きな魚に飲み込まれそうな魚は動きが止まり、まるで死を覚悟したように見える事がありますが、それと同じ事が田島様に起こったとしたらどうでしょうか。私はもしかしたら同じように、心の中でこどもたちに語りかけるでしょう。

感傷的になりがちなこの秋にそれを論じると非科学的といわれるかも知れませんが、きっとあなたも先ほど生き物の死骸の集まりから構成される食事をしたことでしょう。

生き物にそうした差別は私はするべきではないと考えます。つまり、根拠は彼らあるいは彼女らが生き物であるということが、証明するまでもないからに他なりません。

2、次に、1でもご理解できなかった場合の説明を付け加えます。あるべきだという倫理観(田島様が仰るサミぃの考え方)と、同じではない何か別のものがあり、それは感情とは言えない(田島様の主張)という一見異なると思われるものが実は全く同じ事を言っていると、私は考えるのです。

3、このコメント欄は文字が小さいので、もしよろしければWhat is Life?にもお越し下さい。もちろんここで続けるのでもいいのですが、、。ま、宣伝もかねてますm(._.)m
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田島鉄也 さんのコメント...
貴方の考えを理解するために、文章を論理的に補い、客観的事実を述べた文(命題)と主観的な意見を述べた文(非命題)に分けてみました。

ニュアンスが失われてしまいますが、議論しやすくするためなのでどうかお許しください。

命題

(1)ゾウリムシの持つ「感情」は人間の感情とは異なる。(ゾウリムシなど微小な生き物が持つ人間とは違う心的表象を「感情」と記す(田島))

(2)遺伝子を引き継ぐことを目的とした全ての生物は、物理的な生理活動によって支えられている。

(3)そのような生理活動をする生物には、ロポットや物質のように何の心的表象もないとは考えがたい。

(4)微小な生き物に「感情」があるという主張の根拠は、彼/彼女らが生き物であるということである。これは証明するまでもなく、自明である。


非命題

(5)植物の種には、新たな春を待つ仕組みが備わっている。私(サミィ)は植物の種に「気持ち」が存在するという尊厳をそこに与えてあげたい。

(6)大きな魚に飲み込まれそうな魚は動きが止まり、まるで死を覚悟したように見える。それはまるで、人間が死の直前に自分の子供を思うのを連想させる。

(7)生き物の死骸の集まりである食事をすることは、生物の「感情」「気持ち」を理解する機会である。

(8)微小な生き物に心的表象がないする考えは差別である。そのような考えは持つべきではない。

さて、
命題(1)は、否定もできませんが、証明もできません。

命題(2)(3)は論理的に飛躍しています。生物は物質の現象である(2)、ゆえに心的表象がある(3)。この2つをつなげるためには、物質現象と心的表象の関係を示さなければなりません。

(4)は「微小な生き物に「感情」がある根拠は、それが生き物だから」という文であり、意味を成しません。

サミィさんが考える「ゾウリムシに「感情」がある」ことの根拠は、非命題(5)(6)であるように思えます。しかし(5)(6)は主観的意見です。

残念ですが、貴方は「ゾウリムシに「感情」がある」ことの、誰でも納得できるような根拠を示すことが出来ていません。

それは、それでいいんです。

命題/非命題が混合された世界観を示すことも在りですから。命題(事実)だけの世界観は魅力がない。

そこで、世界観の価値を決めるのは何かというと世界観の有効性です。その世界観に従ったほうが、より生き生きと、豊かになれるという説得力です。

最初から「ゾウリムシに「感情」がある」と決めつけるのではなく、ゾウリムシに「感情」があるという証明はできないが、「ゾウリムシは何も感じていない」という機械的な、殺伐とした自然観よりも、「ゾウリムシは何かを感じている」と考えるほうがより豊かな自然観をつくることができる。

と主張し、(5)(6)(7)のようなことを例証として掲げると、より説得力ある魅力的な主張となるでしょう。もどかしいかもしれませんが、そうするしかありません。

貴方は生物学者ですから、一般人では経験できない日頃の実験の体験の中で、(例えば)「この大腸菌は何かを感じているに違いない」と確信することがあると思います。

そのような体験的な例証を数多く発表していくことで、より説得力が増していくでしょう。

さらに、現代の農業、畜産、養殖漁業などの産業構造や、医学、現代人の心の問題も扱うと貴方の世界観はより深くなっていくと思います。

実証的な事実だけで世界観は成立しません。むしろ主観的な思い込みも必要です。ただ、この2つは(少なくとも貴方の中では)明確に分けておかないと、聴いている側が混乱します。
期待しています。

ところで


差別という言葉は、近代の人権概念から発生したもので、本来人間に対して用いる言葉です。

それを全ての生物を対象として用いると、多くの人は言われ無き罪に問われるような戸惑いを覚えると思います。貴方の主張が誤解される恐れがあります。

「微小生物にも「感情」がある」という世界観が一般化し、微小な生物に対しても人権に似た概念を適用するという時代がくれば、「生き物に対する差別」という言葉が共通の言語となってくるでしょう。しかし今のところ差別という言葉には慎重になったほうが良いと思います。

(あるいは「生き物権」ともいうような、新たな権利概念を提唱するという方法もありますが、それは貴方の世界観の有効性が十分に示されることが前提となります。)
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Sammy さんのコメント...
ゾウリムシに「感情」があるという証明はできないが、「ゾウリムシは何も感じていない」という機械的な、殺伐とした自然観よりも、「ゾウリムシは何かを感じている」と考えるほうがより豊かな自然観をつくることができる。

自分の感情も混めた文章をまとめて下さいましてまことにありがとうございます。証明になっていなかったようで。もうしわけございません。上の文章はまさに私が言いたいことです。

さて、ここからはまた感情的なことです。先日の世界ふしぎ発見という番組で板東英二さんが、子牛に焼き印を押していました。大やけどです。ひどいように思いましたし、かわいそうだとも思いました。飼育している動物は食べるため、そう習ってるのでしょう。しかし、あなたのお子様が食料となるとしたらどうでしょうか?

どこで線をひきますか?さる?犬?鳥?魚?ウニ?くらげ?植物は?原生動物は?バクテリアは?

サミぃはそのどこにも線が引けないと思うのです。どこまでが感情というものを持っているのか、どこまでが命の尊厳をもっているのか。サミぃはみんなもっていると思います。

葉っぱをたべることだけ許されているベジタリアン?そんな人がいると聞いて、あきれています。

ま、でも田島様もゾウリムシと話は出来ませんから。おそらく微小な電極をゾウリムシにさして、生殖相手が見つかった際に、激しいシグナルが検出されるはずです。そこに、化学反応(たんなる物質)とは言えないと思うのです。
ソロモンの指輪を持っていませんからだれも、、。
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田島鉄也 さんのコメント...
赤血球も細胞であるので、「感情」がある。

肺胞で酸素に接すると喜びの雄たけびを上げるでしょう。

ウィルスの一種、T4ファージは他の生物の細胞膜に取り付くと、自分の内部からDNAを注入します。

そのときオーガズムを感じているのでしょう。

DNAは温度を上げたり下げたりすると2本鎖がとけて1本鎖になって、増えていきます。

DNAたちは、PCRの中で増殖の喜びに満ち溢れているでしょう。

筋肉組織の中で、ミオシンがフィラメントの上を動くとき、重労働に苦痛を感じているでしょうか。それとも働く喜びを感じているでしょうか。

歯を磨くと歯周病菌が断末魔の叫びを上げ、髪を抜くと毛根が絶望に震える。

人間の60兆もの細胞は、すべて「感情」があり、人間の意識が感じ取るいわゆる感情(以下、<感情>と書きます)というものは、60兆もの細胞が織り成す「感情」に比べれば、全く問題にならない程です。

さらに1個の細胞も無数のオルガネラの「感情」の集合体であります。ひとりの人間の中に、幾つの「感情」があるというのか?気が遠くなりそうです。

この気が遠くなりそうな程の膨大な「感情」は、私たち人間が普通に感じている<感情>と同質のものである---というのが、サミィさんの世界観であるわけですね?。

すなわち、私たちのもつ喜び、悲しみ、苦痛、快楽などのそもそもの根源は、生命活動に関連するあらゆる有機化学反応に、源を発しているということです。

生命である、生きているということは、これら有機化学反応そのものが持っている「感情」と時空をともにしているということなのでしょう。

実に魅力的な世界観です。

しかし・・・しかし、、、、私には疑問の暗雲が立ち込めます。

タンパク質が反応して結合したり構造を変えたりするとき、どのように「感情」が表象するというのか?

もし1個のみのタンパク質反応では「感情」は生じないとすれば、多数の有機化学反応が集まれば、「感情」が表象する「場」が生じるというのか?

これは、物質以外の何か別のものを規定することではないのか?

つまり、物質の背後に何か別の働きを認めていることではないのか?二元論ではないか?

つまり、一度否定した筈の、「たましい」の存在を認めることになりかねないのではないか?
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Sammy さんのコメント...
いや、どうでしょうね。以前「生き物とは何か?」をWhat is Life?のコメント欄で、ある人と激しくディスカッションしたことがあります。私の考えとして述べたことですが、癌は生き物ではない、なぜならそれは個体ではないからと述べていました。

そう考えていたのですが、そうした考え方は私の持論にわざと足かせをしているようにも思えます。

生き物とは何か、これはWhat is Life?のメインテーマーです。つまり、教科書的にはウイルスは物質の集合体であり、自ら子孫を増やすことが出来ないから生き物ではないのだ、、、そう習います。きっと田島様もそう習ったと思います。

そうなると、つまり、物質の集合体である<私たち>(生き物と言われているもの全て)と、単なる物質(非生物)の間のどこに差があるのかということに繋がります。

おそらく有機化学反応であれば、そこに感情というか、あらゆる意味のシグナルがある、それが感情の原点であると考えられなくもないことになります。

つまり、こうです。

(1)生き物は物質の集合体である

(2)そこには化学反応に由来するエネルギーの消費とそれにともなうシグナルが存在する。

(3)石ころのように、そこに受動的であろうが能動的であろうが、何ら反応のないものを非生命体と定義することが可能である。

(4)ここで我々人間であっても感情とは複雑なシグナル集合体である。

(5)シグナル集合体こそが感情の原点であり生命の根源である。

これこそがサミぃの結論です。いかがでしょうか。

これに対する田島様の回答が得られた段階で、この一連のテキストをWhat is Life?に掲載したいのですがよろしいでしょうか?
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田島鉄也 さんのコメント...
細胞の機能は、シグナル伝達によってなりたっており、酵素とかカルシウムイオンなどなど具体的な物質の作用であることは、サミィさんも良くご存知のことと思います。

つまり、1個の細胞はシグナル伝達物質の機械であるということもできます。

しかしサミィさんの世界観では、それは機械ではない、「感情」を持つ、ということですね。

このシグナル伝達物質の集合体が、「感情」を持つとはどういうことなのか?
それは、単なる物質の受け渡しではない、「何かの効果がそこに生じている」ということです。

「何かの効果」とは何か?それが「感情」です。

では「感情」とは何か。それは「単なる物質の受け渡し以外の何かの効果」である・・・

「何かの効果」とは何か?それが「感情」です・・・・ 議論が循環してしまいました。

残念ながら「シグナルの集合体」と、「感情」が成立するということの間の、決定的な接続が見出し得ないのです。

したがって、シグナルの集合体があるということは、「感情」が成立することの必要条件ではあっても、十分条件ではない。

つまり、「感情」が成り立つ条件=「シグナルの集合体がある」+「何かの条件」ということです。

「何かの条件」とは何でしょう?

サミィさんの文章の文脈を読むと、「自ら子孫を増やすことができる」ことがその条件であるかのように見えます。

「感情」が成り立つ条件=「シグナルの集合体」+「自ら子孫を増やすことができる」=自ら子孫を増やすことができるシグナル集合体である。

この図式でもう一回問うてみましょう。

自ら子孫を増やすことができるシグナル集合体が、「感情」を持つとはどういうことなのか?

それは、単なる物質の受け渡しや、単なる増殖ではない、「何かの効果がそこに生じている」ということです。

「何かの効果」とは何か?それが「感情」です。

では「感情」とは何か。それは「単なる物質の受け渡しや単なる増殖以外の何かの効果」である・・・

「何かの効果」とは何か?それが「感情」です・・・・ また循環してしまいました。

残念ながら「自ら子孫を増やすことができるシグナルの集合体」と、「感情」が成立するということの間の、決定的な接続が見出し得ないのです。

したがって、自ら子孫を増やすことができるシグナルの集合体があるということは、「感情」が成立することの必要条件ではあっても、十分条件ではない。

つまり、「感情」が成り立つ条件=「自ら子孫を増やすことができるシグナルの集合体」+「何かの条件」ということです。

「何かの条件」とは何でしょう?
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Sammy さんのコメント...
少し私の主張が正確に伝わっておらず、そうした感情というものが何か特別な、神秘的なものを仮定されているように感じています。

もう一度、これまでの流れから、私が感じるようになった結論(?)めいたことを整理して記載します。文章を短く書きますので、正確なニュアンスはもしかすると伝わらないかも知れませんが、ご了承下さい。

(1)「生き物」の定義は自ら「子孫を残す能力を有するもの」を指します。これは教科書的なもので、もちろん人が決めたものです。

(2)では「自ら子孫を残せないもの」として「生き物」ではないと定義されるものは何かというと、それはウイルスということになります。その定義ではウイルスは他の手を借りないと増えることが出来ないからです。しかし、田島様のご指摘通り、そこではRNADNAを注入する仕組みが会って、それはどこかにエネルギーが関与しているはずです。

だとすると、それは感情を持つのでは?と仮定できる可能性があります。そこでまず私はそうした「生き物」の教科書的な定義を取っ払って考える必要があるのではないかと感じました。これは田島様の影響によるものです。

(3)さて、そうすると、この議論の根源となる感情、あるいは魂、気持ちとは何かということを改めて考え直さなかればなりません。そこで原点に返って、私たち人間から考えたのです。私はこうしてMacBook Proと呼ばれるパソコンを使って、この文章を書いていますが、私は「生き物」です。それは極めて複雑な物質が無限とも思えるような膨大な数存在し、そこで外界から得た食べ物(エネルギー源)を利用して死ぬまでスイッチが入りっぱなしの物質集合体です。そして、そこでは化学反応と呼ばれる電子の動きが存在し、そこに熱や、電気、音などのシグナルが発生している極めて複雑なシグナル集合体なのです。

(4)人間がシグナル集合体であることはこれでいいのですが、次に、もう少しだけミクロに迫ってみましょう。細胞です。人は細胞集合体です。単細胞となると自ら子孫を残せない体細胞が殆どですが、でもそこには多くの物質と化学反応と電子の動きが存在し、るシグナル集合体であることは自明です。

(5)では極端に反対に位置する石ころを考えt見ましょう。私たちがその石ころを蹴れば移動し、音が発生し、二つに割れれば子孫が増やせたことになるかも知れませんが、残念ながら石ころはこれまで挙げた定義のどれを参考にしても、シグナル集合体では有りません。ん?しかし、、、、、、いや、溶けて動いているマグマは?などとちらっと気になりましたが、それは (^_)ソレハ(_^)/コッチニオイトイテ。


石ころは生き物でもないし、シグナル集合体ではないのでそこに感情は無いはずです。拾ってきたかわいらしい石ころに愛情を持って接することでなんとなくさらに可愛さが増し、石ころが夢に出てきてお告げをしたとしてもそれは人が勝手にやっていることです。

(6)私の主張を示します。感情はシグナルの組み合わせから「感じている」と勝手に考えているものである。しかし、それは石ころとは区別される広い意味での「生きもの」(癌も単細胞も酵素も含まれます)が起こしているシグナルなのです。よって、感情というものも、実はシグナルの集合に過ぎず、だとすると、感情そのものは幻想であり、感覚というものを複雑なシグナルであると定義することが出来、それを広範囲に適用するならば、シグナル集合体には感情が存在するということになります。

(7)以上です。

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本日の講義は以上です。最後に、出欠をとります。以下のバナーをクリックしたことで「出席」と認めます。(内山さん、見てますか?)

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